折木奉太郎という人物への疑問

シリーズの主人公であり、主な語り手としてほとんどの作品に関わっているのですが、
なぜこのような描かれ方をするのか、疑問が解けない部分があります。

「打ち上げには行かない」→「そして打ち上げへ」?

これが折木奉太郎に疑問を持ち、惹かれることになったきっかけといえるものです。
正直なところ、この矛盾に他の読者のみなさんがどんな見解をお持ちなのか知りたい、
というのがこのエントリを書き始めた目的でもあります。

「打ち上げには行かない」というのは、『愚者のエンドロール』6章の章題で、
「そして打ち上げへ」は『クドリャフカの順番』6章の章題。
どちらの作品でも、事件の解決がなされたりエピローグにあたる終盤の章です。
あえて着眼点を絞ってまとめますと、
『愚者〜』は、奉太郎が「自身の推理能力・理論に溺れ、本郷や千反田の心境を考えられなかった」ことに挫折を味わうストーリー、
『クド〜』は、千反田、伊原、福部の3名が、それぞれ自分の能力の限界に向き合い、挫折を味わうストーリーと捉えられます。
『愚者〜』の奉太郎が「打ち上げには行かない」と言うのは、よく分かる話です。
入須に自尊心を煽られ、いいように使われたと苦い思いをした彼が、
その成果物を賞賛される場に行きたいわけはないでしょう。

対して『クド〜』では「そして打ち上げへ」行くわけです。
『クド〜』は、前二作と異なり、部分ごとに語り手が交代する形式を採っていますが、
この章は全て折木の目線による語りのみで構成されています。
前章は解決編で折木と田名辺の一騎打ちだった訳ですが、その直前までは他の3名が、
各目線から挫折を味わうエピソードが描かれていました。

しかし「そして打ち上げへ」では、折木は各種の問題を円満に解決させたことに満悦し、
その場の空気を非常に明るく捉えており、小説最後の文ではこんなことまで述懐します。
「その音は、満足の行く結末を祝福するベルにさえ聞こえた。(改行)多分、俺たち全員が、そう感じていただろう。」

いったい折木奉太郎は『愚者〜』で得た苦い教訓をどこへやってしまったのか

この時点で他の3人は挫折を完全に乗り越え、晴れやかな気持ちなのだと解釈できなくはないでしょうが
二冊の小説のテーマと、完全に対比させた章題、先に引用した箇所などの露骨な表現から、
あえて物語の主人公として矛盾を抱えた思考をとらせた、作為的な描写だと私は考えます。

この時点では私は、類まれな洞察力を持つ探偵:折木奉太郎も、
省エネ主義により人との関わりが少なかったためか、
「他人の心の機微を読み取れない」という弱点をまだまだ抱え続けていくんだな、
すぐにスパッと成長できない辺りはリアルなのかも等と考えていました。

心情の察しが良いのか悪いのか謎

ところが…です。
後に執筆される2つのの短編で、私の認識は揺らぎます。

『連峰は晴れているか』

この短編で、折木奉太郎は中学時代の小木教諭の行動に疑問を持ち、
その裏で起こっていた出来事を解明しました。
注目すべきは、この謎について彼自身が率先して解決に取り組んだことと、その動機です。
動機について千反田に問われた答えは曖昧な言い方(意図的だと思います)になっているので、
こうまとめるのが適切かは分かりませんが、要するに
“(二度と会うかも分からない)小木先生の気持ちを、自分の無神経によって害するかもしれないから”
だというのです。
この短編には作中時期について正確な記述はありませんが、上垣内連峰の頂きに雪がかかる頃=晩秋とすると、
クドリャフカの順番』で描かれた文化祭以降ではないかと考えられます。
「そして打ち上げへ」で周りの空気を読み取らず、何も気づかないことを強調された彼が、
それと同時期の出来事で、これほど些細な切っ掛けから他人の気持ちを推し量り、それを確認するための行動をとる。
いやいや、何でだよ!と、この時点で私の中の「折木奉太郎」像は大混乱に陥りました。

『鏡には映らない』

更にこの短編では、伊原が折木の中学時代の行動の謎を追う内容で、
作中で折木が取った行動は、全て中学時代のものです。
この時の彼もまた、些細な手がかりから鳥羽麻美に向けられていた悪意に気づき、
それを無効化するために自分を犠牲にするヒーロー的行動を取っています。

出来事の時系列に合致しない、他人の心情に対する感受性の高低、
これが私にとって〈古典部〉シリーズと折木奉太郎の最大の謎でした。