先日、映画「黒牢城」を見てきました。
映画の方の感想はさておくとして、小説を真剣に再読する機会を与えてくれたことには感謝しています。
映画になるということは、上映時間の制約、映像というメディア特性による表現方法の違いなどにより、内容をある程度換骨奪胎しなければならないものでしょう。それを踏まえて映画を評価するため、小説再読に際して、見どころとなる要素や重要なテーマにどんなものが挙げられるか、分解して考えてみることができました。
自分用のメモで済む話しなのですが、色々思うことがあったので、人様にお見せできるような体裁で書き残すことにしました。
本稿では、小説「黒牢城」の読みどころを3つに分けて話したいと思います。
1つ目の読みどころは、荒木村重がいかに籠城戦を戦い抜くのかです。
小説の大部分を占めるストーリーラインとも言えるでしょう。長期戦となる籠城に不可欠な要素として、大将の威厳を保ち続けることの重要性が語られ、それが損なわれる事態を恐れる村重が、謎を解かざるを得なくなる。これが物語を駆動させる仕掛けにもなっています。
持久戦であるゆえに勝利で求心力を高めることが難しいうえ、度重なる変事が発生によって村重への信頼は徐々にすり減っていきます。部下自身もそれと認識していない程度の些細な侮りや怠慢が蔓延する城内。決定的な裏切りがあれば対処のしようもあるものを、真綿で首を絞められるように状況が悪化していき、身動きが取れなくなっていく村重を描き出す筆致は見事という他ありません。
城内で最大の権力者であり誰より自由であっていいはずの村重が、様々なものに囚われていき、最後に頼りにするのが牢につながれている官兵衛というのも皮肉な構図で、本当に囚われているのは誰なのか、「黒牢城」という名付けを味わい深くしているように感じます。
さらに面白いのは、この視点で物語を見ると官兵衛は探偵役でありながら、見えざる謀略をめぐらせていた犯人でもあるという構成です。官兵衛が仕掛けた「荒木村重」の名を地に落とす、という目論見についても、「なぜ戦国武将の中でも卑怯な小人物としてイメージされる村重を主役にしたんだろう」という読者が持つであろう当然の感想を利用したメタ的な驚かせ方で本当に上手いなと唸らされました。仮にこのテーマだけで小説が構成されていたとしても、十分に傑作たりうると思います。
2つ目の読みどころは、死への向き合い方です。
小説の舞台となる戦国時代は、現代と比べて遥かに死が身近な時代。武士は功名のため、家名を栄えさせるため、様々な存念で己の命をかけて戦に臨みます。安全な現代では縁遠い、命をかけて戦う武士たちのヒロイズムは、戦国時代小説を読む楽しみの一つです。
そんな定番の面白さの枠を超えて小説に深みをもたらすのが、数々の謎の主犯である千代保が語る犯行動機です。彼女は、民が最も恐れるのは死ではないとし、力なき民が仏を信じて心安らかに死を迎えられるように数々の変事を主導したと語ります。
ここまで武士の合戦物語を読んでいた読者にとっては、唐突かつ突飛に思える動機でしょう。戦に勝ちさえすれば、城内の民はそもそも死なずに守れるのではないか。であれば、戦に不利となることはすべきではなかったのではないか。そう考えると、千代保の行動は不合理であり、民を浄土に送るという狂信から導き出された異常な行動にも思えるかもしれません。
千代保が見ている世界と村重や読者が見ている世界。それがどれほど違うものであったか痛切に受け止められるかどうかが、「黒牢城」の味わいを変えるのかなと思います。
千代保は、多くの一向宗門徒が命を落とした伊勢長島の戦場を体験しています。「進めば極楽退かば地獄」を旗印に戦うものたちがいる一方、彼女を含む戦う力のない者たちは、飢餓、矢玉、炎が渦巻く生き地獄の中、死を覚悟してもなお、死して後も地獄の苦しみから逃れられぬかもしれぬと恐怖していました。
一向宗(現在の「浄土真宗」)は、全ての衆生を救うという阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を唱えることを教えとしています。人は誰しも煩悩から逃れられないのだから、自分の善行や修行などで救済を得ようとする「自力」は戒められるべきもので、ただひたすらに南無阿弥陀仏と救いの手に委ねる「他力」こそ目指すべきものです。
「進めば極楽」とは「自力」に頼る誤った考えで、「退かば地獄」とは全ての衆生を救わんとする阿弥陀仏の本願に合わないもの。「仏法のために死ねと薙刀を振りまわした者らが織田と和議を結んだことは、殿もご存じにございましょう」との言葉からは、この旗印が、本願寺勢力が織田家ら大名と軍事的に渡り合うため、信者を焚きつける武略にすぎないことを見抜いているように思えます。
宗門を束ねる本願寺であっても盲信せず批判をする自立した信仰心と、民心を安んじるという目的のためには、宗旨に合わない念仏で菩提を弔うことも、偽りの仏罰を示してみせることも厭わない、現実主義的な行動を選ぶ人物。それが私がイメージする千代保です。
力なき民の命が虫けらよりも軽く奪われる戦乱の世にあって、「死ぬゆく者のことをのみ思う」と定めた彼女の道は、村重と交わるものではなかったのでしょうか。それは、少し遡ったP351からの二人のもう一つの問答を思い起こすと象徴的です。
村重は千代保に、自身に一向宗を信仰するよう薦めない真意を尋ね、千代保は御大将にとっては仏のことも武略のひとつであろうから、それを妨げるつもりはないと答えます。これを聞き、村重は千代保が目的のためには信仰をも利用する知恵とリアリズムを有していると喜びます。もはや城内に自身を理解するものは誰もいないと思っていたところに、思わぬ味方を見つけたという心持ちか「(前略)進めば極楽退かば地獄と本願寺が嘯くも、また武略であろう(中略)森羅万象、武略にあらざるものは一つもないな」と晴れやかに語ります。「困じたように眉を曇らせたまま微笑」んだ千代保の心の内は、どのようなものだったのでしょう。仏の救いをも武略としかみなせない、武家の大将ら「自力」を捨てられないものたちの業を、彼女は誰より冷静に見透かしていたのではないかと感じました。
3つめの読みどころは、因と果、人知を超えた運命や不条理をどう乗り越えるかです。
終章において、村重に復讐を果たした官兵衛は、その結果として引き起こされた惨劇の重さに直面さられます。因果は複雑なもので、有岡城落城での悲劇も元を辿れば、復讐心という魔に憑かれた官兵衛の策略であり、その元を辿れば村重が「信長と違い、自分は無闇に人を切らない」と喧伝する武略で官兵衛を斬らなかったことが松壽丸を殺させ、その元を辿れば信長の残虐な行いが村重に謀反に踏み切らせ…と果てなく悪因と悪果が複雑に絡み合っている。さらに言えば、子を愛する思いが復讐の悪因となることもあれば、見せしめの殺戮が領内の平和をもたらすこともあるなど、何が悪因であるのかすらも人には計り知れない。
思い悩む官兵衛に光をもたらしたのは、一命を賭して松壽丸を救った半兵衛の行動です。希望を取り戻した官兵衛は、子孫に善因となる心得を遺し、それが後の世で福岡に繁栄をもたらしたという善因善果で物語は締めくくりられます。
ストレートに読んでも、陰鬱とした物語の最後に希望を感じられる清々しい締めではあるのですが、最後の心得が、実はP423で語られた村重の言葉と同じ内容であることを思い起こすと、もう一段深みが増すような気がします。
終章の中盤、村重の最後については「辞世は、おそらくあったのだろうが、知られていない。誰もかれのことばを書き残さなかったのだろうか」とあります。
誰も残さなかった村重のことばを遺訓として伝えた、官兵衛の思いはどのようなものであったのか。魔に魅入られていたと振り返る土牢での村重との最後の対話。最終的には武略に溺れた村重でしたが、信長の非道に異を感じたという謀反の理由には善因の芽があったと見たのでしょうか。そんなかそけき善因をすくい続けることが、悪因うずまく憂き世に抗うすべなのかもしれません。










































